二極構造の世界


 朝鮮戦争の休戦後も冷戦は続いた。米ソは原爆から水爆へ、さらに核兵器を遠方に打ち込む大陸間弾道ミサイル(ICBM)へと、とめどない軍備拡大競争にのめりこんだ。
しかし、核対決の手詰まりのなかで、1950年代半ばから東西対立を緩和する動きが生まれた(「雪解け」)。
ソ連では独裁者スターリンの死(1953年)後、フルシチョフが東西平和共存路線を打ち出し、1959年に訪米してアイゼンハウアー大統領と首脳会談を行った。つづいて部分的核実験停止条約(1963年)・核兵器拡散防止条約(1968年)が調印されるなど、核軍縮交渉がはじまった。
 さらに1960年代には両陣営内で「多極化」が進み始め、米ソの圧倒的地位にかげりがみえるようになった。西側諸国は対米依存のもとで復興を進めていたが、ヨーロッパ経済共同体(EEC、1957年)につぐヨーロッパ共同体(EC、1967年)が組織され、経済統合を進めて自立をはかり、ド=ゴール大統領のフランスは独自の外交を展開し、西独や日本は驚異的な経済成長をとげてアメリカ産業をおびやかすようになった。
東側では中ソ対立が表面化し、中国は1964年に核実験を成功させ、1966年には「文化大革命」を開始した。また、東欧では1968年にチェコスロヴァキアで独自の民主化の動きがおこったが、介入したソ連軍によっておしつぶされた。
第三勢力の台頭もめざましくなった。1955年には中国・インドを中心にアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催されて、振興独立国家群の結集がはかられ、、1960年代にはアジア・アフリカ諸国が国連加盟国の過半を占めるようになった。
 ヴェトナムではフランスの植民地支配からの独立運動が続いていたが(インドシナ戦争)、1954年のインドシナ休戦協定によりフランス軍は撤退した。しかし、南北分断のもとでなお内戦は続き、アメリカが南ヴェトナムをたすけて、1965年から北ヴェトナムへの爆撃(北爆)をふくむ大規模な軍事介入をはじめ、北は中ソの援助を得て抗戦した(ヴェトナム戦争)。



55年体制の成立


 サンフランシスコ平和条約の発効は、政治勢力の再編成をもたらした。戦犯服役者の釈放と公職追放の解除によって有力政治家が政界に復帰し、吉田首相に反発する勢力が増大した。1954年、反吉田勢力は鳩山一郎を総裁として日本民主党を結成し、同年末、吉田内閣はついに退陣し、鳩山内閣が成立した。
鳩山内閣は防衛力増強を維持するために国防会議を発足させ、憲法改正をとなえて憲法調査会を設置した。他方では「自主外交」をうたい、日ソ交渉を進め、第3次鳩山内閣の1956年10月には首相自らモスクワを訪れ、日ソ共同宣言に調印して国交を正常化した。その結果、従来日本の国連加盟を拒否していたソ連が支持に回ったので、同年12月には日本の国連加盟が実現した。
 一方、社会党は1951(昭和26)年、平和・安保両条約に反対する左派と平和条約には三世の右派に分裂していたが、とくに左派を中心に、しだいに議席数をのばし、政界は保守と革新の2大勢力対立の構図が明瞭になった。保守は憲法改正(改憲)と対米依存の安全保障を追及し、革新は憲法擁護(護憲)と非武装中立を主張した。
社会党は1955(昭和30)年2月の総選挙で、左右両派あわせて改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保し、同年10月には両派の統一を実現した。
 保守陣営でも、財界の強い要望を背景に、同年11月、民主党と自由党が合流して自由民主党が結成され(保守合同)、総裁には鳩山首相が選出された。ここに2大政党制が形成されたが、自社両党の議席数はほぼ2対1のままで推移し、保守一党優位の政治体制(55年体制)は、以後40年近く続くことになった。